志村けんさんの名言を真に理解するためには、その波乱に満ちた経歴と数奇な逸話を知る必要があります。東京都東村山市で厳格な小学校教頭の父のもとに生まれた志村さんは、家庭内の重苦しい空気を一変させたテレビのお笑いに救われ、喜劇の世界を志しました。
高校卒業間際にザ・ドリフターズのリーダー・いかりや長介さんの自宅へ押しかけ、雪の降る中で何時間も待ち続けて弟子入りを果たしたエピソードは有名です。しかし、付き人生活は極めて過酷でした。運転手や身の回りの世話をしながら、わずかな合間を縫ってネタ作りに没頭する日々。一度は脱走し、別のお笑いコンビを組むなど挫折も経験しましたが、ドリフへの復帰を経て1974年、24歳で正式メンバーに抜擢されました。
加入当初は「新参者」として世間の風当たりも強く、番組内で空回りして観客から冷たい視線を浴びる苦難の時期が続きました。転機となったのは『東村山音頭』の大ヒットです。自らのルーツをさらけ出し、泥臭く体当たりのパフォーマンスを続けた結果、一気に国民的人気者へと駆け上がりました。
晩年、闘病の末にこの世を去った際、関係者の証言として語り継がれているのが「早く舞台に戻って、またみんなを笑わせたい」という言葉です。病床にあっても最後まで芸人であり続け、観客の笑顔だけを渇望していた志村さん。その生涯をかけた執念が、言葉のひとつひとつに消えない熱量を吹き込んでいます。