多くの読者や学習者が疑問に抱くのが、「長旅を終えて無事に我が家へ帰還した喜ばしい瞬間に、なぜこれほどまでに痛切な哀悼が噴き出すのか」という点です。ここには、人間の心理構造と文学的対比の極致が存在します。
土佐国で命を落とした愛娘は、作者夫妻にとってかけがえのない宝でした。過酷な航海中も「都へ帰れば、あの懐かしい家で娘の思い出に浸れる」「無事に戻ることが供養になる」というかすかな希望を抱き続けていたと考えられます。ところが、実際に門をくぐった貫之の視界に飛び込んできたのは、「言ふかひなくぞこぼれ破れたる」我が家の無残な廃墟化でした。
物理的な崩壊以上に貫之を打ちのめしたのは、人情の荒廃と、周囲の残酷な日常のコントラストです。留守を任せていた隣人は謝礼を受け取りながら手入れを怠り、向かいの家からは賑やかな笑い声が漏れてくる。さらには、かつて我が子と遊んでいた近隣の子どもたちが健やかに成長し、夜遅くまで無邪気にはしゃぎ回っているのです。
庭に目を落とせば、人間の数十倍の寿命を誇る松は枯れ、代わりに頼りない「小松」が青々と芽吹いている。「草木でさえ新しく生まれ育つのに、なぜ我が愛娘だけは二度と帰ってこないのか」。心理学でいう「予期せぬ喪失の再燃(グリーフトリガー)」が、荒廃した庭と隣家の子どもたちの声によって一気に引き金を引かれ、旅先で押し殺していた慟哭へと昇華したのです。