本作の企画が立ち上がった際、TBSのプロデューサー・堀川とんぼと脚本家の山田太一が田島則子役に八千草薫を指名したことは、当時のテレビ界にとって暴挙に近い賭けでした。宝塚歌劇団の娘役トップスター出身であり、映画『宮本武蔵』のお通役などで「永遠のマドンナ」と称されていた八千草薫に対して、世間が抱いていたパブリックイメージは「慎ましく、家庭的で、決して裏切らない貞淑な妻」そのものだったからです。
劇中で描かれた岸辺のアルバムにおける八千草薫の役柄は、多摩川沿いの瀟洒な一戸建てに暮らし、商社マンの夫と一男一女に恵まれた専業主婦・田島則子。しかしその実態は、家庭内で家政婦同然に扱われる日々に深い空虚感を抱え、新聞の三行広告「話し相手求む」をきっかけに、見知らぬ年下の男からの電話に応答してしまう孤独な女性でした。その不倫相手となる謎めいた美青年・北川徹を演じたのが、当時甘い二枚目スターとして絶大な人気を誇っていた竹脇無我です。
岸辺のアルバムで竹脇無我演じる不倫相手との逢瀬は、決してドロドロとした愛欲劇としては描かれません。八千草薫が演じる則子は、どこか怯え、罪悪感に苛まれながらも、一人の独立した女として渇望を満たしていくという、微細な心理の揺らぎを体現しました。山田太一は当時の対談で「妖艶な女優が演じたら、ただの下世話なメロドラマになってしまう。八千草さんのように、どこから見ても善良で無垢な人が踏み外してしまうからこそ、日本の専業主婦が抱える暗部が浮き彫りになる」と語っています。この計算は見事に的中し、岸辺のアルバムにおける八千草薫の演技評価は、それまでの清純派の殻を自ら打ち破った転換点として、批評家筋からも絶賛を浴びることになりました。